【インタビュー・サマリー】 ※誤字・脱字はご容赦を
● 番組オープニングとピーター・バラカン氏の紹介
武田砂鉄のラジオマガジン初回のゲストとしてピーター・バラカン氏が登場し、番組がスタートした。
バラカン氏は1951年ロンドン生まれのブロードキャスターで、2013年に第50回ギャラクシー賞 DJパーソナリティー賞を受賞している。
1996年にスタートしたInter FMの「ピーター・バラカンのバラカンBEAT」は現在も毎週日曜日に放送中で、長寿番組となっている。
バラカン氏は前日のInter FMの番組内で文化放送への出演を告知したが、時間を間違えて8時半と言ってしまったエピソードが紹介された。
武田氏は2015年に初の本を出版した後、東京FMの番組でバラカン氏から「君はラジオに向いてるね」と言われたことがきっかけでラジオの仕事を続けることになった。
現在武田氏は週4日、1回3時間半の番組を担当しており、毎朝5時に起きて7時頃に局に到着するというスケジュールで仕事をしている。
● バラカン氏の日常生活とルーティン
バラカン氏は毎朝同じ全粒粉のベーグルと同じ紅茶を同じマグで飲むという、何十年も変わらないルーティンを持っている。
出張やホテル滞在時以外は必ず同じ朝食を取り、このルーティンに揺らぎはないと語った。
毎朝起きたらすぐに服を着て外に出て、近くの公園を45分間散歩するという習慣があり、雨の日以外は欠かさず行っている。
散歩中は音楽も聴かず、特に何も考えないようにしているが、その中で仕事のアイデアが湧くこともあると述べた。
散歩のコースもほとんど変わらず、同じ道を歩くことを好んでいる。
音楽番組を毎週2つ持っているため、音楽を聴く時は常に番組で紹介するかしないかという意識がどこかにあり、仕事意識抜きで音楽を聴くことが少なくなっている。
● 音楽の選曲とファッションへのこだわり
バラカン氏は嫌いな音楽は絶対にかけないという明確な姿勢を持っており、不思議とリスナーから嫌いな音楽のリクエストはほとんど来ないという。
キング・クリムゾンについては、デビューアルバムと1980年代初頭のアドリアン・ブリュー/トーニー・レヴィンが参加していた時期の作品は評価しており、その頃の曲はたまにかけている。
バラカン氏は年中Tシャツで過ごしており、テレビ出演時以外はTシャツスタイルを貫いている。
自身の音楽映画祭で販売するTシャツの生地にこだわりがあり、しっかりした質の良いものを必要以上に高くない価格で提供することを心がけている。
最近の来日アーティストのオフィシャルグッズは生地がペラペラなのに7、8千円もする高価なものが多く、足元を見ているように感じると批判的な意見を述べた。
● ピーター・バラカン・ミュージックフィルムフェスティバル
2024年で4年目となる音楽ドキュメンタリー映画祭を開催しており、今回は全24本の作品を上映した(※ただし報道では「21本上映」とする情報あり)。
最近は音楽関係のドキュメンタリーが多く作られるようになっており、対象となるミュージシャンが年を取っていることも要因の一つである。
マリアンヌ・フェイスフルのドキュメンタリーでは、監督のインタビューに対して率先して答えたくない様子を見せる被写体に、カメラが執拗に迫っていく珍しい手法が取られていた。
ボビー・チャールズのドキュメンタリーでは再現映像を使用するなど、作品によって様々な手法が用いられている。
映画祭では劇映画も一部上映しており、音楽とその周辺を多角的に紹介する試みを続けている。
● リスナーとの関係性と「バラカン方式」
武田氏が「バラカン方式」という言葉を生み出し、リスナーの間でも広く使われるようになった。
「バラカン方式」とは、リスナーからのリクエスト曲に対して「でも僕はこっちがいいな」と別の曲をかけるスタイルのことである。
武田氏がこの言葉を使い始めてから、リクエストの中で「バラカン方式でお願いします」というメッセージが増えたが、バラカン氏は対応に困っている。
最近はバラカンBEATへのリクエストが非常に多く、本来自分が紹介したい曲がかけられなくなることもある。
リクエストが多いとかけないとリスナーに申し訳ないと感じるため、自分の選曲が後回しになることが多い。
番組でかけられない曲はイベントでかけるなど、別の機会を設けて紹介することもある。
● 来日当初の音楽体験と歌詞聞き取りの仕事
1974年に来日した当初、吉祥寺のワンルームマンションに住んでおり、隣の部屋の住人が日曜日にカーペンターズを大音量でかけていた。
隣人は曲の間奏部分に興味がなく、間奏が始まるとシングル盤の針を頭に戻して繰り返し聴いていたため、バラカン氏はイライラしていた。
1974年は日本で初めてブルーズが話題になった時期で、ブルーズフェスティバルが開催され、レコード会社各社がブルーズのレコードを多数リリースしていた。
ブルーズの歌詞は普通の日本人には聞き取りにくいため、もともとブルーズ好きだったバラカン氏に歌詞の聞き取り依頼が来るようになった。
最初はEMIから依頼があり、その後すぐに各レコード会社から依頼が殺到し、1975、76年頃が最も忙しかった。
この仕事は日本のレコードに必ず付いていた歌詞カードのためのもので、翻訳まではしていなかった。
● 音楽出版社での仕事と日本の音楽市場
歌詞聞き取りの後、新興ミュージックという音楽出版社で著作権関連の仕事に就いた。
1970年代の日本ではチープ・トリックやベイシティ・ローラーズなど、日本独自の「洋楽」として売るスタイルが業界の主流だった。
音楽出版社の仕事は地味だが、取り扱う楽曲が自分の好きなものであればヒットしてほしいと思っていた。
仕事をしていく中で、日本で売れるものと自分の好きなものが反比例していることに気づき、その状況は50年経った今も変わっていない。
現在は売れる・売れないが自分の仕事に関係しないため、自分の好きな音楽を電波に乗せて紹介すればそれで良いという立場にいる。
ただしラジオ局が自分を使ってくれるかという問題は常にあると認識している。
● ラジオ番組での選曲権獲得の歴史
1980年にFM東京のオーディションを受けて合格し、ラジオの仕事を始めたが、最初は選曲させてもらえなかった。
1年目は選曲できなかったが、2年目には1時間のうち1曲だけ選ばせてもらえるようになった。
1980年代のラジオ番組は、ディレクターと放送作家が全てを決め、喋り手は台本を読んでディレクターが選んだ音楽を紹介するだけだった。
2番目に担当した矢野顕子がメインDJの深夜番組では、かなり自由にやらせてもらえた。
FM雑誌が存在した時代は、番組の選曲を放送の1ヶ月前に決めて雑誌に掲載しなければならなかった。
バラカン氏は初めてNHKで番組を持った時、FM雑誌に選曲を載せないという事後掲載方式を許してもらい、新しく出た曲をすぐに紹介できる体制を作った。
● 音楽と社会問題への取り組み
バラカン氏は音楽と社会のつながり、音楽と政治のつながりを意識して選曲しており、先週はアニー・レノックスのガザに向けた新曲をかけた。
世の中で起きていることに関心があり、自分の意見を話したいこともあるが、意見を聞きたくないというメールが時々来るため、自分が喋る代わりにアーティストに言わせることもある。
ビリー・ブラッグがパレスチナ人のことを考えて作った新曲も番組で紹介した。
1980年代後半からTBSの「CBSドキュメント」というテレビ番組でキャスターを務め、様々な社会問題を取り扱った経験が大きかった。
それまで新聞を真面目に読んでいなかったが、番組を通じて社会問題について考えさせられ、自分の意見を持つようになった。
トランプ政権に対してアメリカの音楽界がどう反応するかなど、エンターテインメント界と政治の関係にも注目している。
● 音楽業界の変化とライブの重要性
時代とともに音楽の作り方は変わり、現在は大部分が機械で作られているが、アナログ音楽で育った世代としては違和感がある。
最近はAIで作った音楽が堂々と配信されており、架空のバンドの音楽が流れている状況だが、リスナーからの反発も起きている。
CDがほとんど売れなくなり、日本でさえ減少してきているため、ミュージシャンは基本的にライブでしか稼げなくなっている。
秋になるとライブの数が増え、週に3回ほどライブに行くこともあるが、どれも非常に良く、生で目の前で音楽を聴くのが一番だと実感している。
LIVE MAGICというフェスティバルのキュレーションをしていたが、円安などの影響でフェスとして維持するのが難しくなり、去年で終了した。
来年からは個別のコンサート形式で継続していく予定である。
● 全国各地での音楽活動とリスナーとの交流
バラカン氏は全国各地で出張DJを行っており、小規模なキャパシティの会場でもイベントを開催している。
NHKの番組を長年担当していることもあり、各地にバラカン氏が紹介する音楽に興味を持つ人が確実に存在している。
年に1回程度、かなり辺鄙な場所に行っても数十人は集まってくれるため、主催者も喜び、バラカン氏自身も嬉しいと感じている。
ここ数年で女性客が増えている傾向があり、「音楽に詳しくないけど楽しい」と言ってくれる人が一番嬉しいと語った。
地方の辺鄙な場所では特に洋楽のコンサートがほとんどないため、他の人と一緒に自宅より大きい音で音楽を楽しむという体験自体が快感になっているのではないかと分析している。
武田氏はバラカン氏の「君はラジオに向いてるね」という言葉がきっかけでラジオの仕事を続けることになり、番組初回に来てくれたことに感謝を述べて番組を締めくくった。