【No.20】

2025年10月30日 暮田真名(川柳作家・『死んでいるのに、おしゃべりしている!』著者)





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【インタビュー・サマリー】 ※誤字・脱字はご容赦を

● 川柳作家としてのキャリアと現代川柳の定義

暮田真名さんは2012年に初めての句集を出版し、2017年から川柳を本格的に始め、作家らしくなったのはここ3年程度である。1997年東京都生まれで、Z世代の中では年長の方に位置する最年少の川柳人として紹介されている。
川柳は五・七・五の定型詩であり、それ以外には特に決まりがなく、その自由さのためにサラリーマン川柳や時事川柳、現代川柳など様々なものが一緒くたに川柳と呼ばれている状態である。
現代川柳はサラリーマン川柳のような節回しや空白を入れる必要がなく、ダジャレである必要もなく、そういった固定観念をほどいていく試みを行っている。
サラリーマン川柳は「妻描く老後プランに俺不在」のような日常のトホホ感やダジャレが特徴的で、五・七・五の間に空白を入れる節回しがあるが、現代川柳はそのような制約から自由である。
読み手を限定したり状況を限定したりすることなく、より自由な表現形式として現代川柳は存在している。

● 川柳が救ってくれた理由と表現の本質

川柳は韻文であり散文とは違って論理が働いていて、散文が物事を説明するために使われるのに対し、川柳の言葉は説明ではないというところが大きな特徴である。
暮田さんが川柳を書き始めたのは19歳の時で、当時は自分がなぜつらいのかが全くわかっていなかったが、川柳は説明ではないのでわからないままでも何か書けたことが大きかった。
現代川柳の読み方の難しさについて、赤ちゃんの泣き声に例えて説明している。赤ちゃんは「お腹が空きました」とは言えないが泣き声という一つの音で発し、聞き手側がそれを解釈する。
川柳を書いている時、その中にはもやもやとした不満があるが「つらいんです」とは書かず、書かれたものを読んで読み手が「この人はこんなことを考えてるんじゃないかな」と言ってくれることで、作者自身も「そうだったのかも」と気づくことがある。
作り手も意味をわからないまま出しているし、受け取り手も「これかな」という感覚で受け止める。作り手が「こういうことを受け取ってくれ」と思っていたら現代川柳のような書き方にはならない。

● 特異な家庭環境と代表作品の紹介

実家では食卓の上に突っ張り棒があり、そこに洗濯物を干していたという特異な環境で育ったが、自分の家以外を知らないため当時は普通だと思っていた。
代表作の一つ「生けふり」は「生贄にフリルがあって恥ずかしい」という川柳で、生贄という好きな言葉を使いたくて単語メモにあったフリルとつなげて作った作品である。
この作品が受け入れられた理由として、「恥ずかしい」という感情の言葉をそのまま使っている点が珍しく、通常は「恥ずかしい」と言わずに恥ずかしさを表現するのが詩の醍醐味とされているところをあえて直接使ったことに読み手が驚いた。
もう一つの代表作「OD寿司」は全24句すべてに「寿司」という言葉が入っている連作で、「良い寿司は関節がよく曲がるんだ」「寿司、それは飼いならされたアルマジロ」などの作品が含まれている。
これらの作品について作者自身も「何でしょうね」と意味を問われて答えに迷うことがあり、受け止め方は読み手に自由に委ねられている。

● ドラえもんと川柳、そして言葉の感覚

川柳人はドラえもんを扱うことが多く、「ドラえもんの青を探しに行きませんか?」のような作品が存在する。ドラえもんの青は実は悲しみをたたえた色だとエッセイに書いている。
有名なエピソードで、ネズミにかじられたショックで泣き続けた結果、黄色のメッキが剥がれて青色になってしまったという話があり、その傷つきの気配が川柳人を惹きつけるのではないかと分析している。
ドラえもんは明るく振る舞っているけれど、これまでのプロセスを考えると悲しみや寂しさが含まれている存在であり、塗り直せるはずなのにあの状態で佇んでいることに言葉を注ぎたくなる。
日常的に一句丸ごと浮かんでくることはなかなかなく、「この単語使いたいな」というストックが溜まっていく感じで作品が生まれる。
現代川柳はファッションショーに似ており、パリコレのランウェイの服が「この格好で街を歩けない」と言われるのと同様に、わからないまますっと体に入ってくるものがあり、服のためにある服と同様に現代川柳は言葉のためにある言葉である。

● 言葉の違和感と強迫観念

あるアーティストがツイートした「おしゃれしてきてね」という言葉に違和感を覚えた経験について語っている。これは「私は常におしゃれをしているんだ」という強迫観念から来るものだった。
「おしゃれしてきてね」と言われて「いやしてるし」と思ってしまったが、そう言われたことによって自分が「常におしゃれをしなきゃいけない」と思っているという信念が照らされた体験となった。
言葉のちょっとしたニュアンスや意味の違いに気になると、ずっと気になり続けることができる日々を送っている。例えばXを見ていても流行語に敏感に反応する。
最近若者の間で流行っている「顔ない」という言葉について、それを見るたびにのっぺらぼうが頭を通過してしまい、タイムラインで連発されると顔のない状態ののっぺらぼうがシュンシュンと頭の前を過ぎていくイメージになる。
「共感する」「刺さる」といった言葉が現代でよく使われているが、現代川柳の言葉はそういった共感性や刺さる言葉とはかなり遠い位置にある。刺さるというのは刺しに来たということで受動的だが、川柳は置物のようにそこにあるだけなので、こちらから能動的な働きかけが必要である。

● お笑いと詩の共通点、言葉のアンコントロールな部分

お笑いを見始めてから詩が面白く感じられるようになったと語っており、お笑いは言葉が内容の伝達に失敗するさまの宝庫であると捉えている。
言い間違えたり、人と人が言っていることが違ってすれ違いが生まれたり、言おうとして言えなくて噛んだりすることが笑いにつながり、これは詩や川柳にも感覚的・概念的につながってくる。 お笑いも説明ではないので正しいことを言っていないということに、正しい正解を出さなきゃという強迫観念が緩められた経験があった。
「葉物野菜に切りつけられる」という作品を例に、言葉のアンコントロールな部分に時々人間が逆襲されるという光景が川柳に期待するものだと説明している。葉物野菜と刃物が同じ音でイントネーションが違うだけで野菜と刃物が一緒になってしまう。
刃物野菜と聞いた時にゾワッとする感じが良く、鍋に入っている白菜が刃物だったらという想像で光景がめちゃくちゃ変わる。お笑いのズレと同様に、刃物と葉物野菜を取り違えたところからコントが生まれる可能性がある。

● 川柳が身体となった生き方と句会の活動

現在は句会を開催しており、みんなで現代川柳を持ち寄って「これ何なの?」「どういう意味?」「わかんないけど面白いね」とみんなで句を取り囲んでおしゃべりをする会を行っている。
後書きに「もはや自分と川柳の区別がついてない」と書いており、川柳一筋でやってきたので自分の思考と川柳の作品が区別できなくなっている状態である。
川柳から川柳というフィルターを通して世界を見ているのであり、世界を見て川柳を作るのではなく、川柳を通して世界を見ているという関係性になっている。
「川柳は私が初めて手に入れた体だった身体だった」と表現しており、五七五で考えるということではなく、川柳作品が教えてくれた有用性とは違う世界があるということを通して世界を見られるようになった。
常識的に考えると葉物野菜はナイフじゃないと終わるところを、川柳から物事を考えるとそっちから入っていけるようになる。ただしこの思考形態は楽しいが、周りにいる人がなかなか合わせてくれず、生活がままならないこともある。
エッセイ集「死んでいるのに、おしゃべりしている」が柏書房から発売中で、これまでの人生となぜ川柳が体に入り込んだのか、入り込んだ後にどうなっていくのかがわかる初めてのエッセイ集となっている。