【No.28】2025年11月17日 大島新(ドキュメンタリー映画監督・プロデューサー)




✖.com
【インタビュー・サマリー】 ※誤字・脱字はご容赦を

ドキュメンタリー映画監督の大島新氏が、「ラジマガインタビュー」に登場し、共同プロデューサーとして関わった映画『はだしのゲンはまだ怒っている』について詳しく語った。映画は既に東京と広島で公開されており、順次全国公開が予定されている。

   

■映画制作の背景

この作品は、BS12で放送された45分番組「はだしのゲンの熱伝導 原爆マンガを伝える人々」が原点である。この番組を企画したディレクター・小宮山政則氏は大島氏の30年来の知人で、映画経験がなかったため、大島氏に協力を依頼して本作の映画化に至った。
映画化の根底にあるのは、数年前から広まり始めた「はだしのゲン」への教育現場での問題視や撤去の動きである。特に大きかったのは、2023年度に広島市教育委員会が小学生向け平和教材から『はだしのゲン』を削除した決定である。具体的な削除理由は公的に明確に示されず、残酷描写、作中の盗みの場面などの不適切性といった断片的な意見はあるものの、統一した根拠は不明のままである。この「不透明な撤去の流れ」に対する疑問と危機感が映画制作の主要動機となった。

    
    

■中沢啓治という人物像

映画では、原作者中沢啓治の人物像に深く迫る。中沢氏は6歳で原爆被害を受けた被爆者で、その体験を自伝的に描いたのが『はだしのゲン』である。
特に印象的なのは、中沢氏が母親の遺骨を拾おうとした際、骨が粉のように崩れていたという体験で、その衝撃と怒りが「絶対に伝えねばならない」という創作原動力になったと語られている。
また、中沢氏には初期に『黒い雨にうたれて』という過激な作品があり、日本人スナイパーがアメリカ人を殺害する描写など、強烈な怒りと苛烈な表現が含まれていた。この作品は映画の一部にも引用され、中沢氏の激しい内面が提示されている。

生前の中沢氏と交流した編集者の大島正広氏、翻訳家のアラン・グリースン氏は口をそろえて、人柄は明るく優しい。しかし内側には原爆と戦争への強い怒りを秘めていた、と証言する。
講談師の神田香織も同様の印象を語り、40年間にわたって講談で『はだしのゲン』を演じ続けてきた思いを映画で述べている。

■「批判する側」の声もあえて収録

映画には、『はだしのゲン』を批判する識者後藤寿一氏へのインタビューも登場する。このシーンを入れるかどうかは制作陣の間で議論があったが、なぜ作品が教育現場で撤去されるのか、その背後にどのような“考え方”があるのか、を観客が理解するうえで、批判側の論理の提示は不可欠だと判断された。
作品は後藤氏の意見を断罪するのではなく、観客に思考を委ねる形で提示する構成をとっている。

■戦後80年というタイミング

映画制作が進む中で、公開が戦後80年に重なり、さらに日本の政治状況が大きく変化した時期とも重なった。
非核三原則の見直し論、権力批判者への攻撃的な空気などが社会に表れ、「ゲンが怒るどころか、今こそもっと怒るのではないか」という感覚が広がったと大島氏は語る。
『はだしのゲン』作中でも、ゲンの父親が戦争に反対したことで「非国民」扱いを受ける場面が描かれる。
大島氏は、現在の日本でも批判や異論が叩かれやすい空気があることを重ね合わせ、時代の危うさを指摘している。

■加害の歴史を伝える視点

映画後半では、腹話術で平和教育を行う被爆者の小谷たか子氏が登場する。彼女は、広島・長崎の「被害」だけではなく、日本がアジアで行った「加害」の歴史も伝え続けることの重要性を子どもたちに語る。映画ではこのメッセージをラストの象徴として強く提示している。

■「オッペンハイマー」への言及

監督の小宮山氏は米映画『オッペンハイマー』の被爆描写の欠如にも強い問題意識を持っており、これも今回の映画制作への刺激となっている。大島氏自身は同作を評価しつつも、日本で議論が起きた「被爆者の描写がないこと」には理解を示し、現代の核論争が複雑化していることを指摘する。

■核兵器と日本政府の姿勢

コメント寄稿した森達也監督は、核兵器禁止条約に日本政府が参加していないこと、米国の核使用に関連する発言に対し日本政府が批判を避けたこと、などを問題視する。
大島氏も、G7広島サミットで核抑止を肯定する声明が出されたことを踏まえ、「唯一の被爆国として本来あるべき姿勢とのズレ」を強調し、ゲンなら激しく怒るだろうと述べる。

■まとめ

『はだしのゲンはまだ怒っている』は、作品撤去の動き、戦争体験の継承、被害/加害の両面の歴史、現代の政治状況、表現の自由と批判を多面的に照らし出し、「今、なぜゲンが怒り続けるのか」を問う作品である。
大島氏は、現代の情勢を見れば「まだ怒っているどころではなく、もっと怒るはずだ」と語り、作品が現代社会への強い問題提起となることを期待している。