【インタビュー・サマリー】 ※誤字・脱字はご容赦を
■ ゲスト紹介と経歴
文化放送「武田砂鉄のラジオマガジン」のゲストは歴史学者・藤原辰史さん。
1976年生まれ、北海道出身・島根県育ち。京都大学人文科学研究所の教授で、農業史・環境史を専門とする。
著書『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、『分解の哲学』でサントリー学芸賞、日本学術振興会賞も受賞しており、多くの研究成果を発表してきた。
■ 専門分野を選んだ理由
藤原さんは農家で育ち、減反政策の矛盾や農業の自給自足に消極的な政策に疑問を抱いてきた。
大学でナチスが自給自足政策を掲げていたことを知り、「なぜあの政権がそれを目指したのか」という強い興味から、農業史・環境史の研究に進んだという。
■「環境」という言葉への違和感
新著『生類の思想──生きる二つの類型・体液をめぐって』では、環境という語が「自分が巻き込まれていない」感覚を与える点に違和感があると述べる。
公害問題を「環境省」が扱うことへの疑問も含め、自分の身体を貫くような“環境的なもの”を捉え直す必要を感じてきたという。
■「生類」という概念の広がり
“生類憐れみの令”で知られる徳川綱吉の政策は犬だけでなく、捨て子の問題など「生きとし生けるもの」を広く守ろうとする思想を含んでいた。
藤原さんはこの広い意味の「生類」に注目し、現代社会に応用して考察を進めている。
■ 石牟礼道子への「甘え」と自分の足場
藤原さんは石牟礼道子(注1)の思想を長く参照してきたが、自らの問題を考える際に頼りすぎてきたのではないかと振り返る。
入院中の石牟礼との対談で「奇特な方ですね」「あなたのやっていることすべてに関心があります」と語られたことが印象に残っている。
その経験が、自分自身の立場から考え直すきっかけになったという。
注1:石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年(昭和2年)3月11日 - 2018年(平成30年)2月10日;90歳没)は、日本の小説家・詩人・環境運動家。主婦として参加した研究会で水俣病に関心を抱き、患者の魂の訴えをまとめた『苦海浄土ーわが水俣病』(1969年)を発表。ルポルタージュのほか、自伝的な作品『おえん遊行』(1984年)、詩画集『祖さまの草の邑』(2014年)などがある。
■ 体液と暴力の歴史
本書で扱われる“体液(血液・涙など)”は、歴史の中で巨大な力によって犠牲にされた人々から流れたものである。
第一次・第二次世界大戦やナチズムの研究から、圧倒的な暴力が若者や民間人を押しつぶしてきた歴史を見つめる中で、体液という概念が重要な鍵となった。
■ 現代社会の「関係性の貧困」
藤原さんは「人々が生き生きとできない」のは、関係性が貧困になっているからだと述べる。
生き生きとした状態は、人間・植物・動物と豊かに結びつくことだと考えている。
一方で日本の就活に見られるような“自己の商品化”が、人間の多面的な関係性をそぎ落としているという。
■ 金継ぎモデルが示す修復の思想
欠けやひびを隠さずに生かす「金継ぎ」のように、傷つきながら生きる人間の在り方や教育のモデルは修復から始まるべきだと藤原さんは語る。
完璧な人間を作ろうとする教育や、選別された人だけが入る再開発空間とは違い、傷を前提にした関係が必要だとする。
■ 便利さが奪う「不便と余白」
社会の過剰な便利化によって、かつて存在した“余白や不便”が失われ、人と人が寄り添う機会も奪われている。
藤原さんは「欠けや漏れがあるからこそ人は寄ってくる」と語り、赤ちゃんの体液や不完全さが周囲との関係を生む例を挙げる。
大人にもその感覚が必要だという。
■ 関係性を取り戻す初歩 ― 食材の出どころをたどる
学生には、自分が食べているものの産地や生産者をたどることを勧めている。
問い合わせをしたり、農家を訪ねたりすると、自分が何でつくられているのかが理解できる。
映画『カレーライスを一から作る』のような実践は、その視点を象徴する例だ。
■ 食を軸とした新たなつながり ― 縁食とエディブルシティ
東京でも「縁食」(注2)の場づくりが始まっており、誰もがゆるやかに食事を共有できる空間が生まれつつある。
また、都市に果樹などを植えるエディブルシティ運動(注3)が世界で広がっており、食を通じて関係性を再構築する試みが進む。
藤原さんは、これらの動きに社会の風穴の兆しを見ている。
注2:一人で食事をとる「孤食」でも、家族など強い絆で結ばれた集団で食べる「共食」でもない、食を通してゆるやかにつながる新しい食の形。藤原辰史氏が提唱した概念で、子ども食堂や公衆食堂、縁側での団らんなどが例として挙げられる。
注3:経済格差の広がる社会状況を背景に、新鮮で安全な食を入手するのが困難な都市を舞台に一部の市民が始めたアスファルトやコンクリートをガーデンに変えて行く活動。
■ 食の過剰な商品化と生きづらさ
食べ物はすべて“かつての生き物の亡骸”であるにもかかわらず、商品化されすぎて大量廃棄が生じている。
“食べること”と“食べられること”の間にお金が介在しすぎ、根源的な関係が見えなくなっていることが生きづらさを生んでいる。